Kan.さんのワークプログラム『浩然乃氣』に参加して 後編

4日前くらい?の記事にて、世界の秘教や道教クンルンネイゴンの継承者であるKan.さんのワークプログラム『浩然乃氣』に参加した感想や、それに絡めた私の拙い思いを途中まで書かせて頂きました。この記事では後編ということで、同ワークプログラムの内容や感想の続きを書かせてもらいます。

早速脱線しますが、ちゃんと繋がっているのでご安心ください。昨日はボイストレーニングの日であり、ボイストレーナーの方とKan.さんのワークプログラムの話を少ししました。Kan.さんの「現代人の喉周りが変化している。弱くなってきている。」という話や、自分を思い出すため、「鼎」に出会うため、食べる力を再び鍛えるために「唾を飲むこと」について話をされていたことについて、ボイストレーナーの方も興味を持たれていました。その方は、「唾を飲むこと」を、「自分を食べる行為だもんな。」と仰っていました。その通りに思います。一見話題を選びそうないわゆるスピリチュアル系の話でも共有できるのは嬉しいですね^ ^

さて、昨日の前編で書いたことは、プログラムのうちの前半で聞いたことと、僕が思ったことです。Kan.さんが終始伝えようとされていたことに、「自分で考えて自分でクリエイトしていく。」ということがありました。そのためKan.さんは、一方向的に教えたり、直接的な分かりやすいものを与えたりすることを、なるべく控えていました。だって、それをすると、クリエイトできなくなるから。「人間、一度習ってしまうと、自分で出会えなくなる。」そうKan.さんは仰います。しかし、そうは言っても、どっぷり現代の環境に浸かって来た我々が、いきなり自分で考えてクリエイトするのも難しい…。そこでKan.さんは「そもそもの『自分』を思い出す練習をする。」ヒントを伝えようとされていたように感じます。このあたりは、会場の雰囲気を見ながら、Kan.さん自身がお話をクリエイトされていました。ということは・・・私たちの中にKan.さんに答え( )を聞こうとする姿勢が、解決を求めようとする意識とと言うか雰囲気とういうかが、あったのかなと今思ったりします。当たり前ですが、まあ、我々皆んな現代人ですから、ちょっとそういう傾向にあるのかも…。あ、コレ、完全に私の意見ですすみません(^^;)。

さて、前半にも書きました「食べる力」、「唾液を自分で出すこと」に関連するのが、「腹八分目」という考えです。Kan.さんは少し歴史に触れ、江戸時代の今でいう占い師?の水野南北が、食べ物が足りていない時代に腹八分目と唱えた意味について話されました。食べ物が少なくても良く噛んで唾を出して腹八分目にすることで、エネルギーが回るようになるのです。八分目を越えると、むしろエネルギーを使ってしまいます。知識でもお金でもなんでも、人生を豊かにするためにあるもののせいで自分が概念に縛られて豊かでなくなるのは、食べ過ぎて逆にエネルギーを使うのに似てますね(^^;)。江戸時代?の飛脚なんかも粗食で一日100kmとか走っていたらしいです。水野南北などに関してもそうですが、伝承は口伝で伝わっていることが多く、文献や書籍が残って伝えていることが全てではない、そうKan.さんは強調されていました。
Kan.さんは日本を含めた世界の秘教(エソテリック)の継承者でもあり、歴史の裏側にはいつもエソテリックな存在があったと言います。また、何も食べずに、空気中のプラーナと呼ばれるエネルギーを食べて生活するブレサリアン(不食)の方々もいますが、Kan.さんは腹八分目の方がよりエソテリックではあると言っておられました。もちろんこれも良し悪し、比較の話ではありません。
ただ、私も砂糖を半年間やめたり小麦を何年も摂らなかったりした経験から、共感する部分がある気がします。Kan.さんの言葉を借りれば、「オールオアナッシング」、「0か100か」は決めてしまえば案外楽なのです。昨日の話や、この後書く「ふいご」の話にも通じることですが、「0か100か」よりもバランスを取っていくことの方が難しく、だけど同時にそこに意義を見出せるし、神秘があるように思います。                                           
Kan.さんは著作『時空を超えて生きる 潜象界と現象界をつなぐ』において、今あるルールを分かりながら「その奥」で生きることを説いています。今あるルールを破ったり、単にない方が良いと言ったりしているわけではないのがポイントだと思います。そして「」とはなんでしょうか?
Kan.さんの存在や仰ることも、今の時代でいうと「スピリチュアル」に分類されるかもしれません。しかし、現代でスピリチュアルを説く人、もっと大きく言えば目に見える世界でない世界に生きようとする人の中には、あらゆる今のルールを否定したり、何を主張しても個性だと言わんばかりの方がいるように思います。もちろん、どう考えるのもその人の自由であるという前提に僕も立ちたいです。ただ、そういう方や、政治・歴史系の発信をされている方に関しても思うのですが、色々な面(肉体面・精神面、社会面など)で無理があるよう見える時があります。さらに、そういう人たちにの中にはその無理を解消しようと、他の人や社会を変えようとしたり、説得しようとしたり、否定したり、自分が影響力を持とうとしたりと、色々辛そうに見えてしまうことがあります。見ている側も疲れてしまうことがあるように思います。僕だけですかね?いわゆるスピリチュアルの世界においても次元が高い?方が上と考えるなら、それは教育や環境の中で身に着けてしまった目に見える世界の価値観・点数主義のようなものと変わらないし、誰か一人や何かの考えを絶対視するのも危険かつ浅薄で、スピリチュアルでもなんでもないように思います。むしろ精神性は低いような…。まあそんな僕も、言葉を尽くしてこんな長く書いていること自体、「自分が理解されないという不安」や、「人に理解してもらおうとしている」、もっと言えば「人が人のことを理解できると錯覚している」と言えるかもしれません。(あらあら💦) ですが、自分にもそういう面があるからこそ、自分が気づいたことを人にシェアしたいと思うのです。いずれ「自分」という概念・存在自体が変わっていく気もしますが、今のこの途中経過の状態を残しておきたいと思います。Kan.さんが「人生も常にプロセスである」と言われていることも励みになりますね。まあ脱線してしまいましたが、私は「0か100か」でなく、例えば小麦や砂糖に関しては、今この世の中に食材としてあるし、私自身嫌いではないので、食べたり控えたりバランスをとりながすることはうと思います。それで良いんだと、今回Kan.さんのワークプログラムや著作を読ませて頂き、思いました。何の話だ…

次元探求においても「次元が高い方が良い」と考えるのは結局スピリチュアルじゃない現世的?な世界と変わらないよねってことが分かります。ルールの奥で生きてみたいですよね。^ ^ この本、本当に面白くて何度も、特に人生の節目ごとに読みたいです。
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さて盛大に脱線しましたが、後半はワークをいくつか行ったので、そちらのシェアをさせて頂きます。一つは「立ち方」についてで、もう一つは「ふいご」についてです。

まずは「立ち方」のワークについて書きます。ポイントとして、「膝をゆるめること、つまりは大地を感じること」があるようです。

「膝をゆるめる/大地を感じる」

前編でKan.さんが「太陽を食べる」ことを話されたと書きました。その後、プログラムの中で、「朝日に向かって膝をゆるめて立つ」ワークを私たちも立ってやってみました。室内なので太陽は実際に拝んでいませんが…。膝をゆるめて立つというのは、直接膝をゆるめると言うより、「足裏」と「大地を感じる」という意味のようです。現代人は地に足をつけて、それを感じていきられていません。大地を感じるためには膝に入っている余計な力を抜いた方が良く、力を抜いて初めて力が入っていたと分かるようです。これも習うのでなく、自分発信で大地を感じようとしながら膝の力を抜いていこうとするのが大事なようです。また、物事の順番というのは時間の話で、順番を求めたり守ろうとしたりすると、言葉はきついですが「時間の奴隷」になってしまうとKan.さんは仰います。自分発信でやらないと宇宙には、漬け物には、火星には届かないとか。漬け物の例は、「Kan.さんに訊く。」というインタビュー形式の本の中にある、酵母、オリゼの話を読むと分かってくるものがあります。いずれKan.さんの本を紹介していきたいです。

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 自分発信で行うことは、このワークに限らず何でも重要であり、それは時間と共に減っていくエネルギーに対して、反対の流れを持ちこむことに繋がるとか。つまりエネルギーは減るとしても、その代償に何かが増大していく。例えば素晴らしい歌手の声は衰えても、歌は不滅で受け継がれて広がっていくのです。その生き方は、「習ったことを終わらせていくだけの消化試合の人生」とはかけ離れている、そうKan.さんは仰います。

さて、太陽に向けて立って大地を感じ膝をゆるめながら、指を広げたり閉じたりするのも良いようです。手は頭と直結しており、このワークを行うことで頭と身体が連動していくことを思い出すかもしれません。

「ふいご」

「ふいご」について書きたいと思います。ふいごとは、ジブリの映画『もののけ姫』に出てくる、鉄の製造時に風を送る装置ですね。前編で扱った各人の中にある「鼎」は鍋であり、火を灯すものですが、その火にちょうど良い風を送るのがこの「ふいご」です。プログラムの中では「ふいご呼吸」というワークを行いました。ポイントとして、吸う時に骨盤基底部がちょっと自然に閉じて、吐く時にはみぞおちから緩んでいく。ただ、これも厳密でなく、吸う時にちょっと自然に閉じるかな?といった感じ。吸う時に自然に少し閉じた分、吐く時は自然に少し漏れる。みぞおちから緩んでいくようです。Kan.さんは唾を飲む際にも骨盤が少し閉じると仰っていました。また、「最初は鼻で吸って口で吐く。」その方が一回一回が完結していて安全なんだとか。完全な鼻呼吸は難易度が高いようです。このことに関して、僕は舌や声、身体のことを独自に学んでおり、鼻呼吸も実践しているため分かるところがあります。舌の記事はまだ執筆中ですが、現代人にとって完全な鼻呼吸はかなり難しいと思います。練習する価値はありますが、練習が必要でハードルが高いのも事実でしょう。Kan.さんの仰るようにまずは鼻で吸って口で吐く、一階ずつ完結させる方が安全で長続きすると思います。

最後に

まとまるわけではないですが、今回Kan.さんのワークプログラムに参加し、個人的にはとても良かったと思っています。年度の最後に、自分の中で自分をがんじがらめにしていた概念の枠組みを、少し溶かすことができたような気がしています。人によっては、当たり前のことを言われているように感じたり、もっと人生の転機のようなものを期待していた人は物足りなかったりしたかもしれません。しかし、Kan.さんも仰っていますが、ワークショップや講演会、人や本などに期待をするのはおかしな話だと思います。もちろんそれも自由ですが、結局人の中にある辞書や概念は異なるため、自分で考えてクリエイトする。それを阻む概念や枠組みがあるなら、まずは自分でそれを疑ってみる、崩してみることがあって良いかなと思います。もちろんそれをやるもやらないも自由です。結構自分の内面をえぐることにもなるので、この作業は辛いところがあります。今辛い人は余裕が出てからでも良いかもしれませんね。私は自分の自由で、関わる人が少しでも楽になる世界があっても良いかなと思い、こういった記事も書いています。最近、再びKan.さんの他の著作を読ませて頂いたり、自分を縛っていた二元的な枠組みがない「非二元」という概念・世界に今とても関心があったりしています。今後も社会問題や自分の関心事に従事しながら追っていきたいです。

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