Kan.さんのワークプログラム『浩然乃氣』に参加して前編

昨日2022年3月20日、世界に数あるエソテリック(秘教)の教えを受け継ぎ、道教クンルンネイゴンの継承者でもあるKan.さんという方のワークプログラム『浩然乃氣』に参加致しました。その時のことを少し文章にて共有させて頂こうと思います。散文のようにざっと書いていきますが、お付き合いよろしゅうお願いします^ ^

はてさて、眼に見えない世界やいわゆるスピリチュアルという世界に興味がありつつも、同時に嫌悪感や疑いもあった私。ワークプログラムといったものには、昨日初めて参加しましたが、昨日のKan.さんのワークプログラムにおいては、変に思うところは一つもありませんでした。スッと自分の生きる指針が定まる一助に、背中を少し押してくれるような、そんな機会になりました。

他の方もブログで仰っておりましたが、Kan.さんは悪い意味での「宗教にならないように」、「自分が教祖にならないように」、言葉を変えれば「人が何かに解決、正解を求めていくことにならないように」配慮されておりました。とにかく各人が自分で考えて、自分自身のものをクリエイトしていくことを重視し、それができるよう、慎重に丁寧に時間をかけて話されていました。

さて、実際のワークの中で話題に上がったことを紹介していきたいと思います。ワークプログラム『浩然乃氣』とプログラム名にもあるように、「氣」というものが論点にはなりましたが、Kan.さんも自身も自分でその時会った人、会場の雰囲気によって新たに何かをクリエイトしていくことを実践されていたため、話すことは会場で、ライブで決めていっているようでした。そんな中、昨日の会場でKan.さんが度々仰られていたのが、「鼎(かなえ)」、「唾を飲むこと」、「太陽を食べる/人と出会う」、「ふいご」といった言葉・概念です。会場で取ったノートを見てこれらの言葉の意味も思い出しながら、昨日のプログラムを私なりの解釈で書いていきたいと思います。今回の前編では、「太陽を食べる/人と出会う」ところまで書きます。その他のプラクティスと「ふいご」については、また明日にでも書きます。^ ^

まず「鼎」ですが、鼎とは三本の足がある鍋の一種のようです。肉体的・三次元的な骨盤の奥にある、半物質的なもので全員の中にあるとか。全員にあるが、現代人は使えていない場合が多いらしいです。鼎を使うとはどういうことでしょう?

鼎とは鍋の一種であるため、火を使うことが目的です。ただ火を使うのでなく、安全に使うこと、これが欠かせません。人間における鼎も、人生の安全弁として必要なようです。人は好奇心を持って、この地球に旅をしに生まれて来ています。その意味で好奇心を持つことは大事であり、重要。好奇心とは心の火と言えますね。そして、生き方にしろ技術にしろ、何かが芸術といわれる領域になるかどうかは、火がつくかどうかだとKan.さんは語っておられました。しかしその火も、暴走すればとんでもないことになってしまいます。自分の健康や他人を害する芸術は疲れてしまいますし、相手にされなくなっていきます。「言論の自由」や「表現の自由」があるというのはその通りだと思います。しかし、人を不快にするような過激な物は、今後それぞれの人が真意に沿って生きてゆけば相手にされなくなり、勝手に消えていくと思います。(←あ、これはあくまで私の意見です。)まあ、世の中をたった一人で生きていくことは厳密にはできません。酸素すら、僕らは自分で生み出すことができないのですから、無人島で一人で生きていくというのも嘘だと、僕は思います。その点で、各人が自分の、自分だけの火を、自分の鼎に灯して、健全かつ同時に好奇心・冒険心を持って大胆に、自分なりに生きていけば、素敵な世界ができていく、そんな話だと僕は感じました。

「鼎」って何か聞いたことあると昨日も思っていましたが、今ケータイの過去の写真を見ていたら、スクリーンショットでこれが出て来ました。確か高校生に伝えている時に参考にしたものです。人生、色々繋がっているし繋がっていきますね。気付いても気付かなくても。

唾を飲むこと

さて、そんな目に見えず半物質の、しかし確かに「そこ」にあるらしい「鼎」ですが、現代人が使えなくなっている理由の一つに、咀嚼力」・「嚥下力」、まあ総称して「食べる力」の低下があるようです。Kan.さんも噛む力は鍛えている?ようですが、それでも明治のおじいちゃんなどの地鶏を噛み切って食べるような力には及ばず、退化を感じるらしいです。この「食べる力」を客観的に表し、また鍛えることにも繋がるのが、「唾を飲むこと」のようです。唾を自分で出して飲み込めるようにすること、これは健康においても重要なようです。Kan.さんは、現代人の喉周りが変わってきていると仰っていました。このあたり、発声障害の手前になったり、ボイスケアサロンに行ったり、歌をやったりボイトレしたりしている私にはとても気になってタイムリーでもある話題。(全てが有機的に繋がっていくこの感覚、とても心地良い!☺)食べる力や喉の力の低下については、舌もかなり関係しています。舌については別に記事を書いています。

ここまでは科学的・物理的で割と分かりやすい話ですが、「唾」ということに着目すると、一人一人成分が全く違い、それ自体がもう既に強烈な個性であるというお話をKan.さんはされていました。自分の唾を自分で出して飲み込むという、いわば一種のプラクティスは、常に「自分」というものを自分の身体に思い出させるリマインダーになるということでしょうか。言われてみれば、例えば私たちは、食べ物のCMや飲食店の広告・香り、インスタのオシャレで美味しそうな(?)な投稿など、外部のものによって味覚を作られています。「何を」美味しいと思うか、もっと言えば、何によだれを垂らすかをコントロールされちゃいないか!?って話になりますわな。「誰か」の都合の良い食事、誰かの都合の良い時にによだれを出させられ、自分で、自分からよだれを出すことすらできない。そして挙句、最後は食べ物を噛めず、飲み込めず、誤嚥性肺炎になったりして死んでいく。そうならないために、自分で自分から、身体の機能と自分を思い出すために唾を出して飲み込むというプラクティスをする、そんな風に私は理解しました。鼎に出会うためには、唾を飲むことが必要なようです。それができていくと、鼎に火が、「心火」が灯るようになるそうです。

「心火」は焼き鳥を焼くような、しっかりした安定した火だそうです。奄美大島で焼いたテント泊した時に焼いたこの鳥、美味しかったな。

余談

Kan.さんは度々「心火」と仰いました。最初耳に「しんか」という言葉が入ってきた時、感じが分からず「真価」と書きました。Kan.さんが「太陽を食べていると『しんか』に届く。」と仰った時、私はとっさに「真価」かな?と思いました。その後、「しんかに今日入って来た太陽が落ち着く。」とKan.さんが仰った時、私は「深化」だったのかな?と思いそう書きました。その後Kan.さんは「(太陽と人とちゃんと出会うと)心の火が落ち着くような良い感じになる。」と仰ったので、「心火」か!?となりました。日本語って面白いですね。どの「しんか」も好きです。

太陽を食べる/人と出会う

鼎と出会うために、現代人は唾を飲むことことが重要であると書きました。さて、一日の中で、鼎を意識していくためには、「太陽を食べる」ということが大事なようです。「太陽を食べる」という言葉は、Kan.さんの著作『問題は解決するな』にも出て来ており、私自身は馴染みのある言葉でした。我々は米や魚、野菜、おやつにパン、なんでも、食べ物を食べていると思っているが、実際には食べ物から太陽のエネルギーを貰っているのだとKan.さんは仰います。

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現代の私たちは、食べ物を実際に作る工程からも遠ざかっている場合が多いですが、太陽光を浴びる、太陽と出会う行為自体が減ってはいないでしょうか?そこでKan.さんは、毎朝太陽を食べる、つまり太陽と出会うことを勧めていました。習った太陽でなく、毎日毎朝新しく新鮮な気持ちで新たな太陽に出会う。本当は朝日とは日の出から一分以内の太陽のことを言うようですが、どんな太陽でも良いから習った太陽でなく、毎日自分で太陽に出会って太陽を食べることが大事なようです。「習っていない」太陽であることが重要で、人は一度習ってしまうと、そこから「本当に出会う」ということがなくなるとか。習った太陽、自分で出会わない太陽の延長線上にあるのが、瞑想で太陽を出現させようとしたり、もっといくとメタバースの世界で仮想の太陽や仮想の空間、仮想の人間関係の世界で生きていこうとしたりする話になってしまうと、Kan.さんは仰いました。これもまあ、別にどこまで行っても個人の自由で、メタバースの世界で生きるのも、瞑想(妄想)の世界に生きるのもその人の生き方かもしれません。ただ、自分で選択したと思っている自分の感情も、自分で本当に考えて至ったものではないかもね、という話になりますね。Kan.さんは常に少数派で、マイノリティでありたいと言っておられました。私も個人的には少数派でありたいと思っています。

はてさて、一日の中で太陽と出会った後には、多くの人は他の人と出会います。ここから話は「人と出会うこと」、「人間関係」の話に入っていきます。「人間関係」は「上手くやる」のでなく、「言いたいことを言ったり」、「用事をしたり」する必要があり、それがポイント。人と会うのでなく、出会う。それはつまり、自分の「鼎」で、自分の太陽で、簡単に言えば「素」で人にぶつかっていく。何も争ったり論争したりすることではないが、双方が、それぞれが、自分の思うところを人に話してお互いに変化を、第三のものを、ミラクルを起こしていく、それが人間関係の醍醐味です。こうした話は、NPO法人の学習支援などで中高生や他の大人と話したり、家庭や教育の体制を見たり、社会問題や政治に従事したりしている私には飲み込めるところがかなりありました。ここからちょいと脱線します!今のコロナやウクライナなどの戦争のことに関してもそうですが、色々なことが言われていますね。まあ確かに、世間一般に言われていることやニュースなどの信憑性は低かったり、客観的に事実でなかったりすることもあると思います。ただ、それでもどう感じるか、どう考えるかは個人次第、個人の自由であり、人を説得することも、変えることもできないし、する必要もないと思います。例えばゴキブリが怖い人もいれば、怖くない人もおり、カレーが好きな人もいれば、中には嫌いな人もいるでしょう。それを「怖がれ」と言うのも、「怖くなくなれ」と言うのも無理な話です。客観的な事実というのも、実際は人によりますよね。統計上のデータなど、数字はあるかもしれませんが、プラシーボ効果というものもある以上、そう思ったらそうなってしまいます。何とでも、どうとでも解釈できてしまうのです。そんな中最近、少なくとも僕は、昨今色々な人が言っている「正義」めいたものや「正しさ」、「正解」と言えそうなもの、「エビデンス」や「真実」、「事実」といった言葉に疲れてしまいました。😨 例えばコロナに関して、僕自身はワクチンも打たないし、必要以上にウイルスを怖がりもしません。ただ、僕が僕自身に怖がらない自由を認めるとすれば、他の人が怖がる自由も認める必要があると思います。政治や法律が人を縛るのもどうかと思いますが、私たちがまだ真に開かれておらず、「鼎」を見つけられていないような状態で生きている以上、いきなり何の法律もなくなったり、直接民主制になったりするのも無理な話でしょう。結局自分が何を取るか、どう考えるかにつきる気がします。ただ、確かにその中で、自分で考えることすらできない状況になるのは惜しいと、僕は思います。先ほどの例でいれば、ゴキブリを怖いと思うのも、怖くないと思うのも人の自由で変えられず変える意味もないですが、じゃあ本当に自分の内から、自分でゴキブリを怖いと思っているのか、本当に自分はカレーが好きなのか嫌いなのか、好き嫌いとはどういうことなのか…、こういう問いが建てられるのではないでしょうか。まあ、そんなこんなで僕は自分が思うこと、感じることを探求し、例えばこの記事を書いたり、教育に携わったり、政治・社会問題に従事したりして、一応僕なりの提案をしているに過ぎないわけです。

だいぶ脱線してすみません(^^;)。そんなわけで、真に開かれた状態に近づけるよう、「鼎」を見つけられるように、自分を思い出すために、「唾を飲んだり」、「太陽と出会ったり」、そして世の中を、社会を生きるために、「人と出会ったり」すると良い。そんなお話として僕はKan.さんの言葉を受け取りました。太陽と出会うヒントとして、「空気が美味しい」という感覚に似ているかもしれないとか。「人間関係」のヒントとしては、人間関係は人と人との間に存在し、その「間」に「氣」が流れるそうです。そしてその「氣」は、出会った人だけでなく、双方の知らない人間関係、簡単に言えば友達の友達にも繋がって流れていくのです。そしてそこから、旅が始まる、とKan.さんは仰います。なんだか素敵な世界じゃないですか?ということで前編を終わります。後編では、さらに太陽を食べるための、身体を使うのためのプラクティスや、「ふいご」といった言葉・概念について書きたいと思います。よろしゅう!(= =)

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