・導入
グルテンフリーのパンを食べたので、その感想とそれ以外の健康や考え方に関係する多大な脱線を書いていきます。グルテンフリーのパンについての話から読みたい方は飛ばして読んでください。
ちょっとわけあって5月7日~9日の間、京都に行っていっていました。「わけ」とは、墓参りに観光、それから、一番の理由としてぼかして言うと「勉強会」です。(一気にすべて言って伝わるわけじゃないし、言葉がこちらの意図しない「概念」として受け取り手の中で形成されないように、今はぼかしておきます。)
前置きは置いときますが、個人的にはこういった前置きやどうでも良いとされることに意味を見出していきたいです。意味なんて常に人間が勝手に作り出しているものでしょうが、今の時代の「意味があること」とは、便利なこと、資本主義の上での効率の良いこと、分かりやすいこと、である場合が多いでしょう。そのことの危険性も知っておくと人生が少し楽しくなる…かもしれないということを、今と過去と未来の私や皆さんに向けて記しておきたいと思います。(なんの話やねん。☺)
・小麦/グルテンに関する個人史
なぜ私がグルテンフリーのパンを食べようと思ったのか。それについて、小麦やグルテンに関する個人談を交えて書かせてください。かつて、小麦やグルテンの(私個人の)問題についていくつか記事を書きましたが、大学受験の時に某うどん屋のうどんかけ小130円を毎日食べていたこともあってか、体調を大幅に崩しました。具体的にいうと、慢性的なガスっ腹、胃痛、消化不良、食欲不振、頭痛などで、病名としては過敏性腸症候群とかですかね。小麦に対するアレルギーやセリアック病という病気まではいっていなかったと思いますが、小麦に含まれるグルテンを摂ると、明らかにお腹の調子から体調まで悪化しました。それもあって、大学1年時から3年間くらいはほぼ小麦を摂らなくなり、その後もたまにしか摂らないようにしていました。同時にマーガリンやらショートニングやら、植物油脂やらファットスプレッドやらのトランス脂肪酸、調味料(アミノ酸)と原材料名に表記される味〇素、グルタミン酸ナトリウムなども摂らないようにしていました。まあ健康ヲタクになったわけです。※なお、批判も否定もする気はありません。
ここ1年くらいはかなり状態が変わってきています。少し前までは仕事帰りにストレスで、これまで最も忌避していたに近い菓子パンを買い食いしたり、ラーメンやパンなども普通に食べたりしていました。その間の自分の心境の変化として、これまでの反動や解放感?も確かにありました。だってほんまは小麦、パン、ラーメンとか好きやもん、、、。そして仕事のストレスもあり、それを食で、ジャンキーな食で、暴飲暴食で代償していくという面もありました。そんなことは自覚しながら、ちょっと罪悪感もあって食べていました。
・「健康」を含めた概念を脱する
そして直近は自分の中で整理がついてきた感じがあります。つまり、これまでの自分を縛っていたあらゆる概念、特に「良い/悪い」「正義/悪」、関連するところだと「健康/不健康」といった二元的な分かりやすい「概念」を脱してきています。冒頭の方に分かりやすいことの危険性があるという趣旨を書きましたが、分かりやすいとはつまり分けやすいということ。つまり、言葉で分けて分類してラベリング、悪く言えばレッテル貼りして処理してしまうということ。それは、分かりやすいけど本当に自分の至りたいところには至れない可能性があって、そういう意味で危険かもしれないよね?って話です。ジョージ・オーウェルというかつてのイギリスの作家は「ナショナリズム」という言葉で、何かの主義や考えにしがみついて、それを自分だと思う状態を表しています。思い込んで概念化して自分の真意を見失う点で、私が「概念」と称しているものに近いです。これについては、仲間内で行っている社会問題や政治などに関する勉強会「大人のための社会科教室」の、2/28の回で私が扱い解説致しました。詳しくはこちらの動画をご覧ください。これ以上脱線する気はないですが、そういった「概念」を消したことで、身体が嘘のように楽になってきたし、何かを食べた後の罪悪感や、何かを食べなきゃいけないという義務感、焦り、(自他に対する)説得、説明、といったことから離れていきました。もちろんどんな健康法や考え方、ライフスタイルなどを否定する気はないし、それこそ当人の「自由」だと思います。ビーガン?の人など、食や環境にこだわる方々が他者・社会を変えようとするのも「自由」です。ただそれは、ここに書いているよに「」つきの自由だと思います。つまり、それはもしかすると自分の中の「概念」の中の制限のつきの「自由」なのかもしれません。というのも、本当にその食や健康法、考え方に自分で納得がいって好きだったら、それで良いじゃないですか?他者を説得しようとしたり、アピールしたり、社会を、世界を変えようしたりしないんじゃないかな。分かりますよ、確かに屠殺の方法が酷かったり、オスのひよこは卵産まないからすぐ殺したり、牛を東京?の市場に出荷するのにトラックに押し込めて水も食事も与えなかったり…。農業に関しても、欧米で禁止されている除草剤を使ったり、ネオニコチノイドと言われる危険性が高いとされる農薬?を使えたり…。私も元農水大臣の山田さんとも対談しましたし(LIVE配信動画はこちら)、ある程度知識や問題意識はあります。ただ、残念ながら、問題意識や自分の正義感、正しいという思いがあればあるほど、そして、それが初めから否定や他者の説得、変化を前提としていればいるほど、伝わらないし避けられるんです。そりゃそうでしょ。でも、だとしたらすごく惜しくないですか?その際抜けている視点は、「自分ではこういう風に思う」ということは、他者がどう思うかも自由だということです。皆んなそれを忘れがちです。そして、自分で何か問題意識や「こうしたい」というものがあるなら、落ち着いて「こんなことがあるよ、私はこう思う。」「あなたはどう思う?」と、対話する姿勢がないと伝わりません。こうした自他の区別が、日本人は日本語の特性もあって中々難しいのです。日本語は思いやりや共感が伝わりやすいと思いますが、ややもすればそれは同調圧力になったり、「あんたもそう思うだろ?」という押しつけになったり、もっと言えば「あいつウザくね?」と言われた時に「ウザいな」と言うしかないような雰囲気を作り出しかねないのです。だって主語をよく省略するもんね。「お腹減った。」って「俺が」とか「俺は」とか言わんし。それは自分が減ってるからあなたも減ってるかもって思いやりにもなるけど、もしかすると、「お前も減ってるよな?」って同調圧力にもなり兼ねないです。だからこの辺は教育で言葉、コミュニケーション、思考、すべて養っていかないと人間関係で不幸になりかねません。
健康法にこだわっている人は、肉体だけでなく精神面で不健康な場合もあります。この前亡くなられましたが、119歳まで生きられ日本、世界最長寿だった田中カ子さんの食生活を見てみてください。コーラやチョコなど、甘い物大好きなようです。糖分を否定している医者など、多分その年齢まで生きられないでしょう。何回か手術も経験されていますが、病気や死が、自分の中で「悪い」「ダメ」と概念化されていたら、とても耐えられないと思います。田中カ子さんについてはまた記事を書かせて頂きたいと思います。
・グルテンフリーのパン
さて熱弁してきましたが、簡単に言うと私は小麦・グルテンとも和解してきました。(^^;)かといって、この前まで前述したようにストレスによる代償行為、反動で食べていた面もあります。最近は気が向いたら食べて、罪悪感も、「食べられた!もっともっと食べたい!」というような異様な達成感?、依存もなくなりました。フラットにナチュラルに、あらゆるものに向き合っていく、これが食事や健康に対してもできるようになってきたのです。
とはいえ、やはりグルテンはグルテン。多く食べると少しお腹がガスっぽくなります。全く気にしていないくらいですが、今回Boulangerie L’oiseau bleu(ブランジェリ ロワゾ―・ブルー)さんのパンを食べて、ほんとうに感動しました。Boulangerie L’oiseau bleu(ブランジェリ ロワゾ―・ブルー)さんは京都の京都市の北、上賀茂神社の近くにあり、グルテンフリーのパンにこだわらています。前から知っており、冷凍でパンを送ってくれるようですが、京都に行くついでに、何としても冷凍していないパンをそのまま食べたいという気持ちがあり、伺いました。グルテンがほぼ入っていない古代小麦のスペルト小麦やアイコーン小麦のパンは、素朴な味がして、胃もたれや消化不良が全くありませんでした。なんだろう、食べるとやっぱり言葉にならない、深さというか、奥行きというか、作り手の思い、熱意が伝わってくる気がする味でした。これは妄想でも良いし、気のせいかもしれんし、定量化できるものじゃありません。ただ、食べた私の中でそういう感情が生まれたことは事実としてあります。
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