サイハテ村に来ています。DAY1 来た理由について

サイハテ村という村をご存知でしょうか?熊本県の西方、三角にあるエコヴィレッジ?です。正式名称は、三角エコビレッジ SAIHATE、ホームページはこちらです。

三角エコビレッジ SAIHATE
熊本にある1万坪のエコビレッジ。パーマカルチャーをとりいれた〝楽園デザイン〟をベースに、アースバッグ建築はじめこれからのライフスタイルを模索・実践するコミュニティーです。

海を見渡せる丘の上にある、10,000坪もの土地にある村、コミュニティです。ずっと住んでいる住人の方と、泊まりに来る宿泊客、そしてゲストハウススタッフなどのスタッフがいます。私も4月28日からひと月、ゲストハウススタッフとして泊まって暮らします。

この記事では、私がこの村に来ている理由や背景を説明したいと思います。村自体の詳しい紹介は、初日の今日ではなく、今後に回したいと思います。毎日ブログも更新しようと思っています!ちなみに、最近自分にできることとして続けているYouTubeでの動画投稿でも、ここに来ている理由を軽く話していますので観てみてください。➡https://youtu.be/dWQaI4hEdFY

他の動画でも、人間関係や人間観察、人生論など恐らく参考になることを話せていると思うので、良ければ観てください。それこそ、このブログの趣旨にある、人生の楽しみ方を一つ見つけられるかも…!?☺

サイハテ村とは

ホームページ➡https://village.saihate.com/

軽く説明をすると、2011年3月11日の東日本大震災の後、工藤シンクさんという方が中心となり、災害があっても、金融崩壊しても?暮らしていけるコミュニティとして作られていったようです。

ここでは「お好きにどうぞ」をモットーに、村にいて自由に色々なことができます。私はゲストハウススタッフとして、3万円を最初に払い、あとはゲストハウススタッフの仕事を一日2時間ほどするだけで、それ以外の時間は自由に使えます。具体的なお金事情や、ゲストハウススタッフの仕事内容などに関しては、後のこの記事に書いています。

サイハテ村に来ています。DAY14
のんびり過ごしてあまり話題がないので、サイハテ村の泊まり方や、実際にひと月にかかるお金事情、ゲストハウススタッフの仕事内容などについて書きたいと思います。

あとは自炊にお金はかかります。たまに住人の方に食べ物をもらえることもあるようです。

サイハテ村の様子。

なぜサイハテ村に?

さて、なぜ私がわざわざこの村に1か月も泊まりに来ているのでしょうか。色々背景はありますが、一つには東京での暮らしを見直したいということです。生まれてこの方東京で生きてきていますが、元々自然が好きで、田舎暮らしの憧れがありました。大人になるにつれ、田舎の大変さや問題点、闇も知るようになりましたが・・・。そして、子どもの頃から大人に対して、そしてこの社会全体に対して違和感を覚えていました。

私自身のことも振り返ると、これまでの人生は、表面上のもの、偽っているものという認識が大学卒業後くらいから段々と明確になって来ました。その中で見直したいものを一言で述べてしまうと、自分の中にある概念、つまり洗脳されている部分です。自分と自分の周りにある人間、人間関係もその一つとして、洗脳されていることによって不具合が生じています。と言っても私自身は人間関係に悩むことはありませんし、今後もないと思います。ただ、自分の周りの間関係や社会を見る中で、「しょうもない」と思うことがたくさんあります。自分の友人同士が喧嘩や仲たがいをしているが、自分はどちらとも問題なく付き合っている、ということもよくあります。

人間関係や感情のことについては、最近毎日投稿しているYouTubeでも話しています。

https://youtu.be/Y3nncnltOIg「感情・素直さを取り戻そう!」

https://youtu.be/pQkwtA-O6BM「『良い人』でいるのやめません?」

さて、それでは、人間関係も洗脳されていることによって不具合が生じているとはどういう意味か。それを説明するために、まず私がどういう意味で「洗脳」と言っているかを説明させてください。ちなみに、「洗脳」については動画でも拙く話しています。➡https://youtu.be/UTfHk0J-Oso

「洗脳」=生まれた後に入って来た知識

「洗脳」というと言葉はキツイですが、他の言葉で説明すれば、生まれ持って私たちに備わった自然なこと以外のこと。後から外部の影響によってつくられて、私たちの中に根付いている、巣食っているもの、私たちを制限する知識と言えるでしょう。例えば養老孟司さんが「バカの壁」と言っているのも、このことに近いかもしれません。

例えば私たちが「長生きしたい」とか「人と話す時に自分のことを話すのが苦手」とか「人と目を見て喋れない」とか、もっというと「~が食べたい」とか「~が好き」とか、さらに「高いところが怖い」といった感情でさえ、生まれた後に入って来た外部からの影響あってのものに過ぎません。「そんなの当たり前なことで、何が悪いの?」という声も聞こえてきそうです。その通りです。しかし、その問い自体も実はおかしいかも。何が「悪い」とか「良い」とかいう考え自体が作られた概念なのです。善悪や正誤といった二元的な価値観こそ、人間が勝手につくったもの、つまり元々あなたの中にないものですよね!?

先ほどの例の「長生きしたい」というのも、長生きが「良い」、生きることが「良い」といった前提があります。生きることは素晴らしいことかもしれませんが、死ぬこともまた重要であり、生きていなければ体験できませんよね。余談になりますが、昨今の疫病騒動でそういった私たちの死生観が照らし出されたと思います。私は正直言って、疫病を恐れる人々の中には、これまでの人生でそんなに「死」や「病気」を恐れるほど「生」にひたむきだったのか怪しい人も多くいると思います。あれ、その食事の添加物は?使ってる農薬ネオニコチノイド系だけど?小麦の除草剤のグリホサート、危険だから世界的に禁止されてるけど?あれ、その病むほどのストレスは?そんな運動不足で良いの?などなど。むしろ、ちゃんとそこに向き合って「生」も「死」も客観視して受け入れていないから、テキトーに浅く恐怖に踊らされるのでしょうがね…。「病気」という言葉には「気」もあるように、あまりに恐れて「気」を病んで生きていたら、それこそ病気になるでしょう。そして実際、疫病騒動以降、自殺が増えています。心を病んでしまっている人が多いという悲しい事実です。

長生きの例だけでかなりのワード数になってしまっていますね(笑)^^;肝腎なのは、上に挙げた例も、それがあるから「良い/悪い」ではないということです。繰り返しになりますが、「良い/悪い」といった考えこそ、後付けの洗脳と言えるでしょう。例えば上に挙げた例の「高いところが怖い」ということに関して、赤ちゃんは最初高いところに置いても怖がらないらしいです。高いところ=怖いというのは、一種の後付けの知識ですよね。(もしかしたら前世の影響とかあるのかもしれませんが・・・。)ただ、マンションの高い階で育った子どもは、高所を恐れないあまり、高いところからジャンプしてケガをする確率も高いらしいです。その意味で高いところが怖いという認識は命を守る上ではうえでは必要です。しかし一方でその感覚が強過ぎると、アトラクションを楽しめなかったり上の階に行きにくくなったりするかもしれません。つまりこういったことは「良い/悪い」のどちらかに偏るのでなく、自分の中のバランスをとっていくことが大事ですね。

「教わる」「習う」といった一種の「洗脳」が自分の感覚を弱める

ここからが重要なのですが、自分の中にバランスをとっていくことは、習ったり教わったりするでなく、自分の体験の中で感覚を養っていく必要があるのです。例えば高所に関しては、小学生時代私も記憶がありますが、よく階段からジャンプして遊んでいました。「俺は6段飛べた」とか「俺は7段!」とかそういう男子特有の、くだらなく思えるものも、自分の体験、体感を養っていくには重要だったのかもしれません。ここまではイケるな、ここからは身体がキツイな、危険だなと、自分の体感として養うことはとても意味があります。自然の中で生きたり、災害の時ジャンプする必要がある時など、こういった自分の感覚がとても大事になるでしょう。これが反対に教わってしまうと、自分の経験がないため、いざという時に動けません。また、感覚がないため、大人になってから無茶をしてケガをすることもあるかもしれません。近い例として、大人が子どもの喧嘩を無理に止めたり喧嘩をさせなかったりで、今の子どもは喧嘩慣れしていないからキレたり加減が分からなかったりしているということも耳にします。「教わる」、「習う」ということが、一種の「洗脳」になってしまっている場合があるのです。もちろん、それは発信側の意図に関わるところが大きいです。例えば「高いところは危険だからやめろ!」とか「この言葉は禁止!」とかいう言い方、そしてそれを言っている人が何か恐怖を感じていたり、自分の不安を子どもに投影していたりすると、感覚の鋭い子どもはそこまでキャッチして萎縮してしまうのです。そしてそれが、その後の人生何十年と影響することも・・・。

「洗脳」が人間関係に及ぼす影響

この「教わること」、「習うこと」が自分の感覚を養う妨げになることをお伝えしてきましたが、それが人間関係に影響を及ぼすとはどういうことでしょうか。大人が「この言葉はいじめになるから禁止!」とか教えると、子どもは人間関係の中で、その言葉がその人にとってどう感じられているのかを考えることができなくなります。同じ言葉でも、どう感じるかは人によって異なります。また、例えば学校の中で口下手な子が、「禁止ワード」を使ってしまって、その子が周りから嫌われる、無視されるということも起きるかもしれません。近い場面は数度目にしています。喧嘩の場面を先生や大人が勝手に仲裁して、無理に謝らせたり、どっちが「良い/悪い」と斬ったりすることで、子どもが大人を信用できなくなったり、ひねくれたりグレたりすることも多いのです。自分の体感で養っていくことが重要なのですが、それが少ないから、日本人の多くが人の目を見て話すことができなかったり、自分を知られたくなかったり自分を出せなかったりするのでしょう。「こう思われたら嫌だな・・・」とか、KY(空気読めない)という言葉や『嫌われる勇気』という本がはやったのも日本人的だと思います。もっと自分の体験や感覚に、シンプルに寄り添って、他人に対してもフラットにいけば良いのではないでしょうか。具体的な悩みの事例や、向き合い方に関して、僕は今後もブログや動画で発信していこうと思います。私もこういった体験があったので言えることだし、それこそそれが「悪い」とか「改善すべき」とかではありません。私にできることとして何か参考になれば幸いです。

「洗脳」を越えた深い?人間関係

こういった考えはマイナーでマイノリティだし、世間一般から見れば変なことを言っている自覚はあります。ただ、こういうことまで深く話していける人とは、深いところで繋がる気がする瞬間が私にはあります。言葉にすると浅いですがね(笑)。ということで、こういうことまで話せる人間関係というのを私は求めているのかもしれません。ただそれこそ、「話せない」と最初から決めて壁をつくる、それこそ「洗脳」がこれまで私にもあったのでしょう。しかし同時に、そんなこと考えたくない人にまで求めるものでもないし、誰かが誰かに教えるというものでもありません。それこそ「深いのが良い」とかそういうものも勝手な思い込みだと思います。これはいわゆる「スピリチュアル」といわれる界隈に多い気がします。高次元が良いとか、光と闇とか、、、。それは結局自分で思い込んだ世界に酔って埋没しているだけでしょう。それであれば、肉体や時間といった制限のある不自由なこの世界に生まれてくる理由がなくなってしまいます。

とまあ、書き出すとキリがないのですが、私は自分の内省や考える時間をとったり、そして動画やこのブログなどで自分が世界と関わっていく時間をとるための期間として、本日4月28日から一ヵ月、サイハテ村で暮らしていきます。「起きることがただ起きている。」起きる出来事に、干渉せず、不安や恐れや期待や執着なく、準備も予測もせずただ生きてみようと思います。また村の様子や旅の様子は随時発信していきます。YouTubeに動画もあげています。今日の動画は旅の疲れで顔がタヒんでいますが(笑)話し言葉の方が私は断然脂が乗るので、興味があれば見てください。こういうものが見たい、こういう話が聞きたい、相談に乗ってくれとか、なんでも仰ってください。それではまたお目にかかりましょう!

コメント

タイトルとURLをコピーしました