私の論点    早稲田大学文学部英文学コース 

 急にかたいタイトルでぬるっと始めた、そして始めたい。早稲田大学文学部英文学コースの僕も、とうとう卒論を真剣に考えねばならない時期に差し掛かってきた。もう5年目の冬だ。来週の水曜日までに、卒論題目の確認という肯定をクリアしなければならない。卒論のテーマについて、教授と話して決めるのだ。今日は勉強の意味や、現在日本の学習システムの問題、自分自身の問題などについて書いていきたい。

 英文学コース僕は当然英文学についての卒業論文を書かなければならない。そして配属先ともいえる、担当教授の担当分野で基本的に書く必要がある。しかし、僕はそこまで英文学が好きなわけではない。というのも、早稲田大学文学部では、2年生からコースを決めることとなり、そこから専門分野の勉強をしていく。僕は元々、西洋史コースを第一志望としていた。しかし1年時の成績が悪かったことで第一志望に落ち、第二志望の英文学コースに進級することになった。何故成績が悪かったか?大学入学前、入学時は希望を持っていた。大学受験の勉強の中で、世界史や英語、国語、その中でさまざまなことに興味を持った。だが、正直受験後、さらに入学後、その炎は燃え尽きていた。受験期の過度なストレスや追込み型の勉強がたたった。しかしそれだけではない。当時僕がよく口にしていたセリフを今でも覚えている。

 「何で受験で自分で勉強できることを知ったのに、また一方的に教わる“授業”を受けなきゃいけないの?」

 もちろんこれは、やる気をなくした自分を正当化するための卑怯な言いわけともとれる。しかし当時そう感じていたことは事実であり、今でも同じように思う。もちろん全ての授業がそうではないし、人から教わることも大事だし意味はある。そして、今まで一方的に教えられる受動的な授業スタイルが骨の神髄まで染みている僕は、プレゼンをしたりグループワークをしたりする、積極的な、アクティヴな授業をあまり得意としないのも事実だ。とすると、受験で自分一人で勉強をすることを覚えた僕にとっては、一方的受動的な講義スタイルか、自主的だが閉鎖的な自習スタイルかの、どちらかしかないことになる。これはあまりに悲しいことだし、自分の問題点でもあると認識している。そのため、学年が上がるごとにプレゼンしたりグループワークをしたりする、積極的な授業を多くとるように心掛けてきた。

 こう振り返ってみると、現在の一般的な高校までの学校の授業と、大学受験のシステム、大学での授業との間に溝があることが分かってくる。高校までは基本、暗記中心、一方的受動的、二元的(テストの○×など)な授業を基本受ける。そして大学受験では暗記中心、しかし自主的な学習を必要とされることも多い。ずっと塾などに通い受動的な学習を中心として大学受験に臨む者もいるだろうが、自主的な学習を少しでもできないと、少なくとも難関校に受かることは厳しくなる。そして、大学での授業では色々話は変わってくる。一方的、受動的な講義が中心となるのは、私学の雄と名高い早稲田大学においても残念ながら当てはまる。しかし、文学部おいては評価の基準として、これまでの学習スタイルになかった“レポート”というものが登場してくることが多い。この“レポート”は、初めての本格的、自主的な学習といえる。大学受験までの自主的な勉強とは異なり、ただ自分で勉強をすれば良いのではなく、自分で論理的に文を書き、論理でもって相手に自分の考察について納得させなければならないのだ。納得までいかなくとも、論理の筋道を正しく書かなければならない。これは、大学入学後にいきなり経験する人も多く、思った以上に難しい。しかし、文章を論理的に書いて相手に読んでもらう、理解してもらうということはとても価値があり、大切な技術だ。社会に出て、上手いプレゼンをしたり、自分の意見を上手く伝えたり、もっといえば人間関係を良く構築することにも寄与するだろう。なので、この訓練は中学、高校から行っていくべきだと強く思う。普段中学生の勉強を見ているが、ほんとうに中学生は自分で文章を書くことを苦手としている。誤字・脱字はもちろん、文章の構成は滅茶苦茶で、何を言いたいのか伝わってこないことも多い。現在の発達し過ぎたスマホやネットなどの影響も、当然あるだろうが、それにしても、学校での学習が足りていないことが目に見えている。そろそろつまらない一方的、受動的、暗記的な授業を見直す時が来ていると思うのだが。

 大学受験のスタイルも、変更するべきだろう。今のスタイルの英語や国語、世界史などは、読解や解釈といっても、結局は単語や文法などが重要となるし、選択問題も多いことから読んだ内容と近いものを選ぶ作業に落ち着いてしまうことも多い。これでは、大学入学後のレポートやプレゼンとかなり差があるといえ、入学に必要な試験として勉強する価値があるのか怪しい。もちろん英語や世界史などの基本的な知識は必要だろうし、読解力も重要だ。しかしもう少しでも自分から発信したり、相手に理解してもらう技術を付けられる試験だと、勉強の対象として良いだろう。少なくとも早稲田大学文学部を目指し受験し、入学した僕はそう思う。

 文章や勉強のことについて長々と偉そうに語ってしまった。そしてまとまりのない駄文になってしまったため、説得力に欠けるだろう。しかし実際問題なのは事実だ。次に僕自身の“論点”に移りたい。僕は英文学がそれほど好きではないといったが、それは興味をもっていないわけではない。一応僕の研究対象に入っている、ジョージ・オーウェルやジョージ・スタイナーなどの作家、批評家などは興味があるし、尊敬している。彼らのその時代に対する観察眼、正義感は見習いたいと思う。僕は何かしらの勉強、研究というのは、その時代、社会に何か寄与することを持つべきだと思う。ところが、特に文学という研究分野は、その時代や社会とかけ離れたものになりやすい。“文学は高尚で、政治や社会問題なんか低俗なものとは関係ない”といった考え方は好めないし、大衆の反感を誘うだろう。だが、実際アカデミックな分野でこういう考えがあることは事実だ。何も問題のない平和な時代なら、そうした考えも良いかもしれない。しかし現代は、平和なようでいて、実際は問題だらけなのではないだろうか。少なくとも僕の目にはそう映る。ここで時代は異なるが、僕の研究対象の、ジョージ・オーウェルの一節を引用したい。“Why I Write”という、後年に書かれたエッセイの中の一節だ。

“Every line of serious work that I have written since 1936 has been written, directly or indirectly, against totalitarianism and for democratic Socialism, as I understand it. It seems to me nonsense, in a period like our own, to think that one can avoid writing of such subjects.”₍₁₎

 拙い訳を載せて置く。

 “1936年以降に書いた、私の真剣な作品のうち全ての行が、直接的にしろ間接的にしろ、全体主義を否定し、私の考える民主社会主義を肯定するために書かれたものなのだ。私たちのような時代に、そういった主題について書くことを避けることができると考えるのは、全く馬鹿げているように私には思えるのだ。”

といった感じになる。彼は“民主社会主義者”という立場を自分で定義し、しっかり決め込んでいる。僕は社会主義者ではないが、自分の立場を明らかにし、その立場から物事にしっかり向き合う彼の誠実さは素晴らしいと思う。1936年以降という時代を考えると、世界が第二次世界大戦に向かっていく時期であり、特に作家という人間がそうした問題を考えないことは確かに全く馬鹿げているといえるだろう。

 この言葉は、今の僕、そして私たちも考えさせるものを持っているのではないだろうか。時代や問題となるものは当然異なるが、この考えは現代にも通じる。特に僕が普段から関心を持っている“食”や“農”、“教育”、“格差”、“貧困”といった問題、は全く看過できる状況にない。こうした問題を考えることを避けるのは、まさに全く馬鹿げていると僕は思うのだ。まあ、最近は、そうしたほとんどの問題は現在の“金融資本主義”に原因があり“政府貨幣”や“公共貨幣”といったものの発行によって解決できるのではないかという希望を持っているが、それはまた別の機会に・・・。

 僕は英文学に興味がないのではなく、ジョージ・オーウェルのように、自分が問題だと考えることへの興味があまりに強いということだ。そして文学部英文学コースにおいても、折角ならそうした考えを強めてくれたり、考え方、問題への対処の仕方を教えてくれたりする文学を学びたいと考えている。結局自分が学んだものを、問題を解決することで社会へ還元していきたいのだ。まあ、綺麗ごとだが人間は生まれながら綺麗ごとを好むだろう。どうせなら綺麗に生きたい。ということで、そろそろ卒業論文執筆に勤しまなければならない。そのため、他の自分が関心を持っているものの勉強やこのブログも少し遅いペースで行うことになるが、まあこれからも頑張っていきたい。

₍₁₎ George Orwell(1946), Essays, PENGUIN BOOKS, p.5,ll.20-24より引用

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