東京手渡し単発派遣肉体労働も資本主義の枠組み下

久しぶりの投稿となります。 自分のブログということで、好き勝手気ままにラフに書こうと思います。さて、僕が今やっている東京での手渡し単発派遣肉体労働から、少し面白いことが考えて見えてきたので書いています。

現在、季節労働の合間で、地元東京で以前からやっている単発の日雇い派遣労働をしています。一日8時間労働(実質7時間半)で1万円弱、手渡しでもらえる倉庫内での肉体労働です。手渡しなので税金を逃れて働いていたり、失業手当をもらいながら働いていたりする人たちがいます。そんなところは季節労働に似ているかも。層は全然違うけど。一時しのぎの人や稼ぎの足しにと副業の人、本業の人たちもいます。

手渡し単発派遣肉体労働も資本主義の枠組み下に

最近思ったことを言うなら、「この仕事も資本主義の枠組みの中での労働という感じになってきたな。」ということです。どういうことかと言うと、誰にでもできて、責任もなく、将来性も保証もない仕事でも、その中にいる人たちに高いモチベーションがあるのです。と言うより、競争原理が働い中で頑張って働く構造ができているのです。倉庫内には各ブロックごとに、毎日個人の仕事量を示した紙が貼られ、ブロック全体の中でどう働くかが話されるのです。派遣のバイトたちだけの間で!僕も例外でなく、色々な理由から平均すると比較的一生懸命働いている方です。ただ、最近これまで以上に職場が殺伐としてきたと言うか、労働者がよりムキになって、ある意味命をかけて働くようになった印象があります。お金は要らないから早出するということが真剣に、仕事用のLINEで話され、実行されていたり…。単発の派遣の、バイトの人たちが!ですよ!?

北海道の知り合いの農家の方の敷地。(関係ない)

「資本主義の枠組みの中での労働」というのは、もう一つ、戦後の、特にプラザ合意後の日本人の労働も似たようなものだと思ったからです。詳しくは、下記添付のYouTubeを見てほしいですが、簡単にいうと今まで100円で売れていたものを、200円で売らなければいけなくなった。高くなって売れない!何とかコストカットして100円で売ろう!どこのコストをカットをする!?そうだ、人件費だ!サービス残業だ!…ってなったのが、プラザ合意後の輸出産業に多く見られる形態ですよね。めちゃ簡単に言ってしまっているけど。輸出大国の日本の大企業がそれだから、当然関わってくる日本の中小零細企業も力学の中で右習えだったんじゃないかな?↓26:30くらいから見てください。日本人の得意の雰囲気とか同調圧力とかでね♪

( ※ ちなみにこの動画の主のYouTuberのTOLAND VLOGさん、岐阜のO祭というイベントを主催され、僕も参加して見かけました。それについてはまたどこかで。)

O祭の様子。ステージ上右二人がTOLAND VLOGのお二人。

資本主義/労働者の心にある障壁

他にもこの単発派遣肉体労働が資本主義の枠組みの中での労働と言えるのは、派遣労働という資本主義の最たる労働形態であることもそうですし、倉庫の中で長時間大人数で仕事をさせるという、産業革命後からありそうな形態に近いのもそうです。しかし、働いている人たちの内実を見てみると、そこにあるのは仕組みという「ハード」の面だけではありません。心という「ソフト」の面も興味深いです。これから書くことは、誰かや何かを否定しているわけではありません。そう読めるかもしれないが、僕の中には否定も肯定もないつもりで書いています。

さて、働いている人の中には、病気になられて文字通り命をかけられている人もいるし、そうでなくともムキになってやっている人もいます。「この人たちのモチベーションはなぜ、そしてどこから生まれてくるのだろう。」と思って観察して考えると、「いや反対か。何かをモチベーションにしないとこの人たちは生きられないんだ。」と分かります。多くの人は何かに自己を同一視して、自分の有用性や存在を肯定したいのですね。だからこだわるし、固執するし、依存するし、場合によっては命をかけるのです。でもそれは、本当の意味で命をかけていると言えるのでしょうか。多くの場合、そういう人たちが仕事や自分を見た際に、自分の固定概念の中で色々なものを見誤っているんですね。色々なものとは、人によって異なりますが、健康とか家族とか趣味とか。色々なものを犠牲にしたり、それでいて「俺は仕事に必死になっているんだ。」と言って開き直ったりしている。しかしそういう人たちは必死になっているようで盲目になっているので、仕事なり何かをしていて、本当には楽しそうでなかったり、他人を振り回したり羨んだり比較したり、後悔したり、焦りがあったりするんですね。

本当に命をかける、本当の死生観というものは、意外ともっとラフと言うか自然なものだと思います。例えば野良猫とかネズミとか、野生動物なんかどうでしょう。猫じゃらしで楽しく遊んでいる野良猫も、次の瞬間車に轢かれて死ぬ可能性もあるのです。次の瞬間死ぬかもしれないが、今悲観していないし、楽しんでいる。猫じゃらしに固執もしないし、死ぬ恐怖にもとらわれていない。生きることと死ぬことは常に隣り合わせだが、多分猫はそもそもどちらも意識していない。今日死ぬのも、ずっと生きるのもある意味変わらないでしょう。人間だって本当は常に死と隣り合わせだし、かと言って今「何かを楽しもう!」と固執し過ぎたり、死ぬ恐怖にとらわれ過ぎたりするのは変でしょう。中途半端な不安や恐怖と、見せかけの上っ面の欲で生きている人が多いのだと思います。(コロナ禍とかいう空騒ぎは、そういう人たちのそういう内面があらわになった気が…。そういった側面もまた人間らしいと言えるのかもしれませんね^^)

仕事や生き方もそういった視点で見ると変わってくる気がします。例えば、今日の分の仕事が残ったって、だから何なんでしょう?次の日地球に隕石が落ちたら、途端にどうでも良くなりません?(地震で電車が止まった時に、それでも何とか必死に会社に連絡して出勤しようとする日本人に驚いた外国人もいるとかΣ(゚д゚lll))

しかし仕事がどうでも良いと言っているわけでもありません。どうでも良い仕事をしてどうでも良い時間を過ごすなんて、有限の時間の人生の中でもったいない。どうせやるなら、自分なりの工夫や楽しみを見つけてちゃんとやり、達成感を持ってやりたいですね。そしてできれば、自分の持ち味が活かせて、本気で向き合えることをしたいですね。本気で向き合えば、本当にどうしようもないことは諦めがつきます。元々古語では、「あきらめる」とは「明らかになる」ことなんですね。これこそ人事を尽くして天命を待つ。仕事で人事を尽くしても、隕石が落ちるという天命があったらどうしようもないですよね。でもそれだったら、悔しいけどしょうがないと思えますね。(そして来世に期待…!?)

ともあれ、それができずに何かにに固執するようになるのは、社会や周りの環境、知識など、自分の外側から入ってくる概念に縛られているからでしょう。現代はそういった状態がいよいよ極まってきているのではないかと思います。先に資本主義の枠組みと書きましたが、資本主義の最大の問題である金利も、将来への不安とかより儲けようという人間の心から生まれたものかもしれません。歴史的背景は色々な説があるようですがね。こういった資本主義の枠組みを含めて、自分を縛る外側から来た概念から自由になるのが、僕の個人的な楽しみというか目標というかの一つですね。皆さんも自分を縛る概念から自由になって、自由な楽しい人生を送ってみてはいかがでしょう。^^

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